2015/02/12

サンバの誕生

(Google検索より拝借)
日本から最も遠いとされる南米に位置する「ブラジル」
ブラジルと言えば、“サッカー”そして“サンバ”と答える人が多いと思います。
その“サンバ”というのは、煌びやかな衣装を身に着けた褐色のブラジル人と、豪華な山車、そしてあのリズム・・・
きっと想像しているのはリオのカーニヴァルのことでしょう。
私がブラジルに留学すると言ったとき、みんな「サンバ踊りに行くの?」なんて言っていましたが、残念ながら違います。笑
サンバと言っても、いろんなスタイルのものがあるのです。
今回はそのサンバがどのようにして生まれたかを簡単にご案内したいと思います。


まず、ブラジルの歴史を知らなければなりません。
ざっくり書きます。(人名や細かい出来事は別の機会にゆっくり)
・1500年にポルトガル人の探検家がブラジルの南バイーアに上陸する
・既にブラジルには先住民(インディオ)が生活をしていた
・1538年からアフリカ人奴隷貿易が始まる
この3つが音楽に非常に関係しているのです。特にアフリカ文化の影響は非常に大きいです。それは、奴隷として連れてこられたアフリカ人の絶対数が多いことと、ポルトガル人が奴隷に対して比較的寛大だったからとも言われています。この3つは押さえておいてください。

“サンバ”の誕生

19世紀末、奴隷や既に解放された元奴隷のアフリカ人が、当時の首都リオへ移住。
彼らは一緒にアフリカ文化、及び、アフロ・ブラジル文化をリオへ持ち込みます。
それらはプラッサ・オンゼという街に集まり、そこで発展していくことになるのです。
プラッサ・オンゼは“A Pequena África”(小さなアフリカ)と呼ばれるほど、アフリカ文化が集中していたとされています。
当時のプラッサオンゼ
1870年代のリオには既にサンバ誕生の元となる音楽があり、カーニヴァル(今のリオのカーニヴァルとは異なる)も開催されていました。
プラッサ・オンゼで夜な夜な開かれるセッションで腕試しをしていた音楽家たちが、リオで流行していたショーロやマシーシ、ルンドゥなどと、新たに持ち込まれたアフロ・ブラジルの音楽と融合させ、新たなスタイルとして確立し、それがサンバと呼ばれるようになったのです。

セッションが開催されていたのは各々の自宅やパーティー会場だったのですが、中でも主要な場所がTia Ciata(チア・シアータ)と呼ばれるシアータおばさんの自宅でした。
シアータはアフリカ人奴隷が最初に輸入されたバイーア州の出身で、美味しいお菓子を作ることで有名であり、沢山の音楽家や音楽愛好者たちが集まったのです。
また熱心なアフロ・ブラジル宗教の信仰者でもありました。

つまり、母体となっていた音楽は、ヨーロッパから伝わった舞踏音楽とアフリカ文化から派生していったアフロ・ブラジルのリズムだったのであります。
「サンバはアフロだ」という説もありますが、これに対してはブラジル音楽の評論家である坂尾英矩氏がAparecida(東京・西荻窪)で行われた講演会にて否定しています。
興味深い話で、「ではブラジルのどこで誰が発祥したの?」のような話もあり、「バイーアだ。」「リオだ。」「アフリカ人だ。」なんて議論になっていますが、これについてMundo Livre SA というマンギビートと呼ばれるブラジルのバンドが“O Mistério do Samba”という曲で全て否定し「サンバは偉大な発明だ。」と一喝しています。
なかなか面白いので歌詞つきのページを載せておきます。
http://letras.mus.br/mundo-livre/206974/#radio


サンバは紛れもなくブラジルでブラジル人が作り出したブラジル文化だということです。
ただ、忘れてはならないのが背景に歴史が関係しており、異なる文化が混ざり合ったが故に自然と生み出されていったものということです。
これがブラジル文化の最大の魅力とも言えるでしょう。

1917年に“Pelo Telefone”という曲がリリースされ、これをもってサンバの誕生としている音楽研究家が多いのですが、他の説もあるようです。
この辺りは学校で勉強してからまたレポート書きます!

では、その“Pelo Telefone”で今日はお別れです。